アミハリさん
アミハリさんの奥さんが倒れたのは、収穫寸前の桃を根こそぎ盗まれた、そのすぐ後だった。元々心臓が弱く、そのまま寝たきりとのことだ。
アミハリさんは元々小柄なおとなしい人だったが、見るまにやつれ、縮んでしまったようにさえ見えた。
ある日区長が、回覧板が返ってこないと訪ねてきた。どうやらアミハリさんの家で止まっているようだ。一緒にアミハリさんの家に行く。応答がないので玄関の引き戸をあけると、蜘蛛の巣がぴんと顔に貼りついた。なにもこんな場所にと剥がしながら、家の中を見て驚いた。
蜘蛛の巣だらけだった。放置された空き家でもこうはならないだろう。折り重なる蜘蛛の巣で、玄関のすぐ奥さえ見えにくいほどだ。
私と区長は玄関にあった傘を掴み、少し考えて靴を脱いだ。傘で蜘蛛の巣を絡めとりながら家に上がった。糸は強くて意外に力がいる。
玄関ほどではなかったが、どこもかしこも蜘蛛の巣だらけだった。不思議なことに蜘蛛の姿は見あたらない。荒らされたような形跡はなく、奥の四畳半から、奥さんが寝ていたのだろう敷いたままの布団が覗いていた。区長が卓袱台の上に回覧板を見つけた。中に裏の白いチラシが挟まっていて、アミハリさんの字で
『しばらく留守にします』
と書いてあった。
アミハリさんには子供も兄弟もいない。区長と相談し、しばらく様子を見ることにした。
このあたりにやたらに蜘蛛が増えはじめたのはその頃からだった。果樹園ではときおり、蜘蛛の巣にひっかかって動けない輩を見つけた。近所の子供や酔っぱらいなど、いたずら半分の果実泥棒だ。ある種の蜘蛛の糸は驚くほど硬いが、こんなことはさすがに初めてだ。
「……虫の中には卵を産み付けるやつもいる」
絡み付く糸を切ってやりながら、ふと思い付き、一晩中蚊にたかられた耳元でぼそりと囁く。
「気をつけにゃな」
これはなかなか効いた。たいがい二度とこない。
特に蜘蛛が多いのは、アミハリさんの果樹園だった。アミハリさんは知らぬ間にたびたび帰ってきているのか、剪定や摘果、草刈りなど必要な作業は都度きちんとなされているようだ。桃は今年もよくできている。
そろそろ収穫時だ。アミハリさんは収穫をどうするつもりなのか、さておきパトロールを強化しないと、と区長たちと話し合ったその翌朝のことだった。
アミハリさんの畑のそばに、見覚えのないナンバーの軽トラが停まっていた。荷台にはクッションを敷いた平コンテナが積まれている。桃泥棒。
張り巡らされた蜘蛛の巣をちぎりながら、中へと急ぐ。木々の間に、作業靴をはいた脚が見えた。
「こら、お前……」
飛び出してすぐ見えたのは見慣れた作業着の後姿だった。毎年とびきり良い実がなると、アミハリさんが自慢していた木の下に脚立がたてられ、足元には収穫篭と数個の桃が転がっている。
「アミハリさん」
アミハリさんは振り向こうともせず、じっと、木の梢を見上げていた。つられて上を見て息を飲む。おそらく蜘蛛の糸なのだろう、枝の間に、真っ白な巨大な繭のようなものがぶら下がっていた。ざ、ざ、と葉擦れの音と共に、少しずつ引きずりあげられていく。
低い呻き声が聞こえた。繭からだ。
その時葉の間から、細い両腕が降りてきて繭を掴んだ。激しい葉ずれと共に、繭は一瞬の内に引き上げられる。
数秒の、沈黙。
どさり、となにかが落ちてきた。恐る恐る視線を落とす。地下足袋。どさり。もう片方。ばさり、ばさり。千切れた服。腕時計、鋏、さらに服。
人一人分の装具の後に、中身の抜けた繭がふわりと落ちてきた。その陰から何匹かの蜘蛛が、かさかさと這い出て、消えていく。それきりだった。
梢を見上げていたアミハリさんはようやく振り返ると、泣き笑いのような顔をした。今年の桃は甘かろう、と呟いた。
*****
去年かその前の夏祭りの時に考えていた話。『無何有郷』を書いていて、ふと思い出したので仕上げてみた。
アミハリさんは元々小柄なおとなしい人だったが、見るまにやつれ、縮んでしまったようにさえ見えた。
ある日区長が、回覧板が返ってこないと訪ねてきた。どうやらアミハリさんの家で止まっているようだ。一緒にアミハリさんの家に行く。応答がないので玄関の引き戸をあけると、蜘蛛の巣がぴんと顔に貼りついた。なにもこんな場所にと剥がしながら、家の中を見て驚いた。
蜘蛛の巣だらけだった。放置された空き家でもこうはならないだろう。折り重なる蜘蛛の巣で、玄関のすぐ奥さえ見えにくいほどだ。
私と区長は玄関にあった傘を掴み、少し考えて靴を脱いだ。傘で蜘蛛の巣を絡めとりながら家に上がった。糸は強くて意外に力がいる。
玄関ほどではなかったが、どこもかしこも蜘蛛の巣だらけだった。不思議なことに蜘蛛の姿は見あたらない。荒らされたような形跡はなく、奥の四畳半から、奥さんが寝ていたのだろう敷いたままの布団が覗いていた。区長が卓袱台の上に回覧板を見つけた。中に裏の白いチラシが挟まっていて、アミハリさんの字で
『しばらく留守にします』
と書いてあった。
アミハリさんには子供も兄弟もいない。区長と相談し、しばらく様子を見ることにした。
このあたりにやたらに蜘蛛が増えはじめたのはその頃からだった。果樹園ではときおり、蜘蛛の巣にひっかかって動けない輩を見つけた。近所の子供や酔っぱらいなど、いたずら半分の果実泥棒だ。ある種の蜘蛛の糸は驚くほど硬いが、こんなことはさすがに初めてだ。
「……虫の中には卵を産み付けるやつもいる」
絡み付く糸を切ってやりながら、ふと思い付き、一晩中蚊にたかられた耳元でぼそりと囁く。
「気をつけにゃな」
これはなかなか効いた。たいがい二度とこない。
特に蜘蛛が多いのは、アミハリさんの果樹園だった。アミハリさんは知らぬ間にたびたび帰ってきているのか、剪定や摘果、草刈りなど必要な作業は都度きちんとなされているようだ。桃は今年もよくできている。
そろそろ収穫時だ。アミハリさんは収穫をどうするつもりなのか、さておきパトロールを強化しないと、と区長たちと話し合ったその翌朝のことだった。
アミハリさんの畑のそばに、見覚えのないナンバーの軽トラが停まっていた。荷台にはクッションを敷いた平コンテナが積まれている。桃泥棒。
張り巡らされた蜘蛛の巣をちぎりながら、中へと急ぐ。木々の間に、作業靴をはいた脚が見えた。
「こら、お前……」
飛び出してすぐ見えたのは見慣れた作業着の後姿だった。毎年とびきり良い実がなると、アミハリさんが自慢していた木の下に脚立がたてられ、足元には収穫篭と数個の桃が転がっている。
「アミハリさん」
アミハリさんは振り向こうともせず、じっと、木の梢を見上げていた。つられて上を見て息を飲む。おそらく蜘蛛の糸なのだろう、枝の間に、真っ白な巨大な繭のようなものがぶら下がっていた。ざ、ざ、と葉擦れの音と共に、少しずつ引きずりあげられていく。
低い呻き声が聞こえた。繭からだ。
その時葉の間から、細い両腕が降りてきて繭を掴んだ。激しい葉ずれと共に、繭は一瞬の内に引き上げられる。
数秒の、沈黙。
どさり、となにかが落ちてきた。恐る恐る視線を落とす。地下足袋。どさり。もう片方。ばさり、ばさり。千切れた服。腕時計、鋏、さらに服。
人一人分の装具の後に、中身の抜けた繭がふわりと落ちてきた。その陰から何匹かの蜘蛛が、かさかさと這い出て、消えていく。それきりだった。
梢を見上げていたアミハリさんはようやく振り返ると、泣き笑いのような顔をした。今年の桃は甘かろう、と呟いた。
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去年かその前の夏祭りの時に考えていた話。『無何有郷』を書いていて、ふと思い出したので仕上げてみた。