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チョコ痕

 寒い日には、秘密ですよ、と囁いて、昌子さんはカップとナイフを用意する。
 傷つけた指先から溢れ出すのは、熱くて甘いチョコレート。最後に昌子さんがひと舐めすると、傷はきれいに塞がってしまう。
 昌子さんは兄の恋人で、帰りの遅い家族の代わりに、いつも家にいてくれる。二人で過ごす夕暮れが、僕はとても好きだった。

 その前で立ち止まったのは、色褪せた看板の隅に、昌子さんによく似た顔を見つけたからだ。地方巡業の見せ物小屋。蛇女の横、文字はすっかりかすれて読めない。
 学校帰りの子供にビラを配っていた男が、僕に気付いて寄ってきた。
「坊ちゃん、その人ご存じで?」
 間近で僕の顔を覗き込む。男の虹彩は何故か目まぐるしく色を変え、気を取られた瞬間に、ぐるりん、と世界が回った。

 気付くと、うちの前に立っていた。玄関のガラスが割れていて、そこら中に褐色の液体が飛び散っている。昌子さんはどこにもいない。
 ちょうど帰ってきた兄が、すぐに血相を変え身を翻した。
「チョコレートだよ」
 遠ざかる背中に叫ぶが届かない。
「……チョコレートだろ」

 それきり二人は帰ってこない。
 からっぽの家に、昌子さんの甘い匂いだけが満ちている。


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2007.03.27 | Comments(0) | Trackback(-) | 500文字の心臓

日の出食堂

 元旦の早朝営業でローカルに有名なこの店が、普段から早朝しか営業してないのは全く有名ではなく、お客は現場のおっさんと、峠を攻めにきた若者ばっかりだ。
 皆、疲れて眠そうで、なのにどこか清々とした空気が流れている。
 テーブルにつくと同時に、おばちゃんが朝定を持ってくる。君の席にはいつものグラス。琥珀色の氷の作り方を、おばちゃんは何度聞いても教えてくれない。

 はじめてこの店に来たのはいつだったか。
 夜明け前の町を、君は怒った顔でずんずん歩き、僕は黙って君を追いかけた。
『こんなに、まだこんなに』
 荒い息の下、言葉はすぐに途切れた。
 それでも君は歩き続け、疲れておなかが空いて、たどり着いた先にこの店があった。格子越しの朝日は綺麗で、ひどく目に染みた。

 朝定を平らげ、最後に君を真似て、指で溶けかけの氷をつまむ。白熱灯の明かりに金色にきらめく。ほのかに生姜とハチミツの香り。
 君は口を尖らせ、血管の透けた細い指でそっとグラスを包み込んだ。氷を映して揺れる眼を、僕はただじっと見つめる。

 やがて空は光をはらみ、変らぬ朝日が、夜と君の名残を溶かす。
 瞬きを、ゆっくりとひとつ。
 夜が終わり、僕の一日が終わる。


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2007.03.26 | Comments(0) | Trackback(-) | 500文字の心臓

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